広隆寺の秘仏・聖徳太子立像について「なぞ」に思ったこと。

11月22日京都の広隆寺で毎年聖徳太子御火焚祭(しょうとくたいしおひたきさい)が行われます。聖徳太子の命日に行われる護摩木供養です。

そしてこの日一年のうちの一日だけ上宮王院太子殿の本尊である聖徳太子の33歳の像が開扉されるそうです。


出典:https://www.pinterest.jp/explore/広隆寺/?lp=true

広隆寺の本堂に当たる上宮王院太子殿の本尊で、聖徳太子の33歳の時の像です。
像高148センチメートル。像内に元永3年(1120年)に作られたと仏師頼範作の造立銘があります。
広隆寺の建てられて(7世紀前半)からあとの1120年、聖徳太子信仰もあり作られて本尊とされたようです。
毎年11月22日聖徳太子御火焚祭の時のみ公開される秘仏になっています。

結局今年この聖徳太子御火焚祭は見には行けなかったですが、この前広隆寺に行ってからなんだかとても気になっていた像なのでした。

なんとなく謎に思いだした聖徳太子像

聖徳太子の命日って私の記憶の中では2月22日です。11月22日どっちが正しいの?頭の中で2月22日と11月22日がしばらく戦ってました・・・

法隆寺では旧暦の2月22日にあたる3月22日にお会式が行われます。そして、法隆寺の聖霊院では秘仏である聖徳太子像が開扉されます。

「日本書紀」では2月5日、「上宮聖徳法王定説」によると2月22日が命日なのだそうです。
実際は旧暦なので今の暦になおすと一か月ほどずれます。

でも、他にも命日の法要をされているとこらがあるけれど、日にちは違うところもあるようなので単なる解釈の違いなのかも。そう思いました。
でも、もう一つ釈然としないことがあったのです。

この聖徳太子像は大永6年(1526)に即位した第105代後奈良天皇以来、歴代天皇が即位大礼に着用した黄櫨染(こうろぜん:淡く赤みがかった茶色)が贈られることになっています。天皇以外身に着けることの許されない色なのだそうです。そして、今の聖徳太子像は、今の天皇の御衣を着ているそうです。
即位された天皇の即位式に着られた衣装を、その天皇が即位中ずっと身につけています。

像は下着姿で実際にその上に衣装を着るそうです。それ自体珍しいなという気がしたのですが、しかもそれは天皇即位の時の衣装なのです。

聖徳太子は天皇の地位にはついていないにもかかわらず、歴代天皇の即位大礼に着用した衣装を着てあたかも即位したような姿をしている???

なぜ、聖徳太子像にそうさせる必要があったのか?

聖徳太子を信仰している人たちの思いがそうさせたのでしょうか?せめて天皇となってこの世をよくしてほしいと?聖徳太子=救世主という思考は多くみられると思うのですが。

歴代天皇の即位の際の大事な衣装です。天皇家自体が強く望まなければおいそれと渡すようなことをするのかなと。そう思いました。

それとも何かもっと他の理由でそうしないわけにはいかなかったのか・・・なにかその裏には歴史の深い闇があるようにも思えてきました。

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厄払いなのかも

気になって調べていたら、一つのブログに行きつきました。

この像の正体は「お雛様」ということだったのです。

お雛様には厄除けといった要素があります。自分の身に降りかかる災難を自分の生年月日を書いた紙の人形(ひとがた)に移らせて川に流しました。
それがだんだん発展していって今のようなお雛様の人形を飾るようになったのです。

お雛様というのは、自分の代わりに災難を請け負ってくれるものでということです。お雛様のように最初に「お」が付き「様」も付く。かなり丁寧な呼ばれ方をしています。それはお雛様が自分の身代わりになってくれる存在だからということなのだそうです。

歴代天皇の代わりに災難を受け止め、その人形を年に一度祓い清める。それがこの聖徳太子立像だったということだそうです。

それだけ天皇という位には、いろいろなものがのしかかってきても不思議はないものといえるのかもしれません。政治的に生まれてしまった怨念が天皇に災害となって降りかかる。そういう背景からこの聖徳太子像に天皇の身代わりにさせた。そう思うとなんだかとても腑に落ちたのです。

また、聖徳太子は天皇にはなっていなくても、天皇家の皇子でもありますし、仏教的にも偉業を成し遂げているからこそこういう役割を持たせるのにはまさにうってつけだったのかもしれません。
この像が作られたのは1120年です。聖徳太子が亡くなって、その後天皇に降りかかってくる災難を振り払う役割を果たす適当な人物もいなかったということなのでしょう。

そして、聖徳太子自身も子孫は全員殺されています。政治的な災難を受けている人物なのです。

また、陰陽道では陰陽道的には奇数が並ぶと陰陽のバランスが悪くてよくない。ということで奇数が並ぶ日に魔よけの節句を行ったのだそうです。お雛様・桃の節句の他にも七草(1月7日)・端午の節句(5月5日)・七夕(7月7日)・重陽の節句(9月9日)など、たしかにみんな同じ奇数の繰り返しです。

3月3日ひな祭り、そしてこの聖徳太子像は33歳の像。(33歳というのは秦河勝が聖徳太子より仏像を賜った時の年齢だそうです。wikipediaより)でもそれは表向きの事なのかも。

そして、最初に来かかるものを感じた11月22日という聖徳太子の命日。これも1と2をそれぞれ足せば3月3日になるということでした。じゃあ最初から3月3日では駄目だったのか?

たぶん魔よけのためのものだと気づかれたくなかったのかもしれません。何にというと、その時代の政敵から。

これは聖徳太子像のことを調べてみた時に見かけたものが、なんだかとても腑に落ちるものに感じたことから書かせていただきました。正しいのか、正しくないのかはまた別として。私はこの説にうなずけるものを感じました。

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