一番好きな仏像の話。広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像(宝冠弥勒)

広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像


(出典:Wikipedia

自分の一番好きな仏像。広隆寺の弥勒菩薩について語ってみたいと思います。

弥勒菩薩は釈迦入滅56億7000万年後世に現れて人々を救うとされている仏様です。

釈迦の後継者で、長い修行を経て如来となる。今は長い修行中の仏様(菩薩)ということです。

弥勒菩薩は半跏思惟像として作られているものが多のですが、それはなぜかというと人々をどうやって救おうかと考えている姿がこの半跏思惟像なのです。

思惟=物思いにふけって考え込んでる様子は、人々をどう救うか考えている様子で、半跏(片足を台座から下げているのは、いつでも何かあったら人々を救いに行く用意をしている、いつでも行動に移すことのできる姿ということだそうです。
そんな風に人々を救ってくれる救世主として人々に信仰されてきた、そんな仏様です。

ただ、弥勒菩薩自体はずっと動かず修行しているというわけではなくて、弥勒仏の中にもっといろいろな菩薩がいて個々の菩薩は人々を救ってくれているのだそうです。

そのすべての仏がやってくるのに、56億7000万年かかるということだそうです。

仏像鑑賞も出会いの一つ

悩んで考え込んでいるような姿。その姿がなんとも美しいと思う。考え込んでいる繊細な姿がいいのだと思います。細身の体にしなやかな指先と見ていて飽きません。

それになにより木造であるということ。これが大きな魅力になっていると思います。木のぬくもりが感じられてなんとなくあたたかい感じがします。親しみやすいのです。

韓国にこの広隆寺の弥勒菩薩とそっくりな弥勒菩薩半跏思惟像というのがあります。でも、たしかに似ているけれど、金銅製というのもあるのかなんとなく冷たい感じがしてそれほどの魅力を感じないです。(実際実物を見たわけではないですが)

木目の美しさ、木の持つあたたかさがより魅力を引き出しているのかなと感じます。

でも、作られた当初はその上から漆が塗られ金箔が貼られていたそうです。上から盛られて全体的にもっとふくよかの感じで、金箔も貼られてもっときらびやかな仏像だったそうです。

それでも、今の姿は今の姿でやっぱり魅力的なのです。今の姿の時に出会えて良かったとも思います。

その時代背景によっては、一般人が見ることもできなかった時代もあっただろうし、もしお会いできたとしても状態が変わっていたかもしれません。

人だけでなく仏像に関しても縁というのはあるのかもしれないと思います。

見る人の気持ち

私は、仏像を見るのが大好きですが、だからといって実はそれほど信仰心というのはあまりなくて、どちらかというとその姿の美しさに心動かされるといった感じです。

仏像を見るのに、その理由とかどういう仏像かとか難しく考えるということは別に必要ないと思います。ただ、見た時に自分が気持ちを動かされるかどうか、それだけなのではないかなと思うのです。

でも、心を動かされたからその仏像がどういうものなのかとかわかってくると面白いし。見てすぐにこの仏像はどういうもので・・・とわかるようになってくるとまた見方も変わって面白いと思うのです。

先ほど、信仰心はあまりないと言いましたが、でもだからといって単に美術品だという風にも言えない。

自分は信仰心から仏像を見ているわけではないと言いましたが、仏像にはその仏像のことを思って祈る人々の心は詰まっているのではないかと思うのです。何か思い入れを込めて祈った人の思いとか、それを作り出すために人には言えないような苦労をした仏師とか。それを取り巻く人々の思いがあってその像自体から何かを感じるというところがあるのではないかなと思います。

そして、見だけで心を動かされたかどうか、自分が好きかどうか感じ方次第なのだと思います。

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