法隆寺に聖霊院という建物があります。
法隆寺聖霊院(ほうりゅうじしょうりょういん) 奈良県 鎌倉時代(1284年)
人を祀った最初の仏堂平安時代末期(1121年)に聖徳太子を祀る仏堂として僧坊を改装して造られた建物です。太子信仰の高まりにより、太子の500年忌に合わせて造られたと法隆寺の記録にあります。
個人の遺徳を偲んで供養のために造られた仏堂は法隆寺の夢殿。栄山寺八角堂などが奈良時代からありますが、信仰の対象として初めて人間が祀られたのです。
神社では平安中期の947年に北野天満宮に菅原道真の霊を祀ったのが初めてですが、仏教では聖霊院が初めてなのです。鎌倉時代になると弘法大師を祀る大師堂、親鸞を祀る御影堂、禅宗の開山堂などが寺院に建立されるようになります。
人々は難解な仏教理念を理解するよりも、すでに悟った人を信仰の対象とする安易な方法を選んだのでしょう。聖霊院は、当時興福寺の翼下にあった法隆寺が太子信仰に生きる寺として再興を図った法隆寺の中でも重要な仏堂なのです。
法隆寺聖霊院(ほうりゅうじしょうりょういん)
(出展法隆寺ーwikipedie)左手前
ここに聖徳太子の像が祀られています。45歳の姿の像だそうです。
聖霊院内の大形の厨子(ずし)に「聖徳太子坐像」を中心に侍者「山背王(やましろノみこ)」「殖栗王(えぐりノみこ)」「卒末呂王(そまろノみこ)」「恵慈(えじ)法師」坐像が安置され、いずれも藤原時代の作で国宝です。
この聖徳太子座像というの自分の自分の中でもかなり心に残っている仏像なのです。
秘仏として毎年3月22日のお会式(御命日法要)の時にご開帳されるそうで、まだ実際に見たことはありません。
もう、何年の前になりますが芸術新潮という雑誌で法隆寺の特集をされていたものがあり、その本が今も手元にあります。
ちょうどその聖徳太子座像が表紙になっています。
どういうところが印象に残ったのかというと、体内仏がこの像の中にあるということです。
聖徳太子像の中に小さな救世観音が入っていて、その救世観音がちょうど聖徳太子の口のところに顔があるそうです。
そして台座の下には聖徳太子が注釈を著した法華・維摩・勝鬘の三経を納めた経容器があるそうです。
救世観音が聖徳太子の口を借りて仏法を説く。また、聖徳太子こそ救世観音なのだという信仰の現れだと思います。
そして、聖徳太子の17歳の像といわれる救世観音もあります。
聖徳太子=救世観音という図式になんだかすごいものを感じたのです。
功績はあるにしろ人が仏になるというところが、そして救世主である救世観音というところがまたすごいなと・・・
理屈ではなくて・・・
話を聞いた時は自分にとっては意外と大きな衝撃だったのです。このことも聖徳太子に関心を持った大きな要因になっています。
今にして思うと、この聖霊院ができたのは時代も後になってきていて、最初に引用した文の中に。
鎌倉時代になると弘法大師を祀る大師堂、親鸞を祀る御影堂、禅宗の開山堂などが寺院に建立されるようになります。
とあり、時代の流れで、菅原道真も神(天神さま)として祀られていましたし、人も祀られる存在となってきたところだったのかもしれませんね。
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