京都御所へ
この前京都に行った際に京都御所を見てきました。
京都に行った用事は次男のことだったのですが、長男と一緒に観光してきました。
長男は滋賀にいるので、用事が終わった後合流して京都観光に行こうかなということになりました。
一緒に歩いていて京都御所にある紫宸殿の前にはお雛様の脇に飾ってある橘と桜が(右近の橘・左近の桜)があるという話をなんとなくしていました。
左近・右近は左近衛府・右近衛府の略称。左近は紫宸殿の東方に,右近は西方に陣をしくが,ちょうどその陣頭の辺に植えられているのでこの名があるそうです。
京都御所パンフレットより(紫宸殿) 建物の前にある橘の木と桜の木です。
そこで改めてお雛様って天皇家を模したものなんだなと思ったのです。
以前書いたものですが
ここで広隆寺の聖徳太子像がお雛様だということを書きました。
広隆寺の聖徳太子像は今上天皇の即位時の衣装を身にまとっています。そして天皇の在位期間中その衣装を着ていてるのです。
毎年11月22日聖徳太子御火焚祭の時のみ公開される秘仏になっています。
もともと人に降りかかる災いを人形(ひとがた)に代わりに背負わせ川に流した雛人形。厄を人形と一緒に流して厄払いするのです。それが雛人形の起源です。
広隆寺の聖徳太子像の役目こそがこの雛人形と同じ役目ということです。聖徳太子像の事が気になっていた時にたまたま見たブログにそういったことが書かれていたのですが、それを読んだ時とてもそれが腑に落ちたのです。
お雛様の住居⁉
(お雛様の両脇にあるのが右近の橘・左近の桜です)
お内裏様とお雛様二人並んですまし顔~♪
有名な歌ですがこれは間違いで、内裏というのは「天皇がつねに居住しているところ」です。
雛人形に対する言葉ではなく場所を表す言葉だったのです。
お雛様がいる(住んでいる)ところが天皇の住まいということです。男雛も女雛もお雛様は天皇皇后両陛下ということです。
京都御所が天皇の住まいになるのですから雛壇に右近の橘・左近の桜があって当然のことなのです。
京都御所の場所はもともと秦河勝宅⁉
(御所内のお庭を撮りました)
少し気になって右近の橘のことを見ていたら、もともとその紫宸殿が秦河勝の宅のあったところということで、秦河勝の宅にあった木をそこにおいたそうです。
秦河勝の住居があるところに京都御所は建てられました。それはまるで秦氏が天皇をそこへ招き入れたような気がしました。
そこまでしている秦氏と天皇家と深く関わっていたからこそそうなったのかなと感じたのです。
広隆寺と京都御所はそれほど遠くない。そして、秦河勝の宅があったところに御所が建てられた。その頃は広隆寺も秦河勝の宅も御所ももっと大きかったのだろうと思います。どちらもななんどか火災にも合っています。
平安京を作るのにも秦氏が多く関わっていました。そうなってくると広隆寺にあの聖徳太子像があるというのもうなずける話なのかなと、妙に納得してしまいました。
そこまでして秦氏が天皇家の厄払いをするのは一体何のためなのか?疑問といえば疑問なのですが・・・
ただ聖徳太子像が作られたのは1120年です。右近の橘が植え替えられたその頃にはまだ存在していなかったことになります。
気になって1120年に行われたことを調べてみると御厄運御慎により改元となっていました。災難があって改元(年号を変える・・昭和が平成になるのと同じです)されていました。
そのための厄除けともいえるように思います。
疫病や天対応変地異によって平安の世は何度も改元を繰り返されていました。
もう災いを繰り返したくない。そんな思いから聖徳太子像は作られたのだと思います。そして広隆寺に平穏をねがって作られた像は安置された。
今回京都御所に行ったことで、それまであまり関連図けて考えたことがなかったお雛様・京都御所・秦河勝という3つの単語が実は深く結びついているということを感じました。
それは天皇家=日本の政治に、秦氏は深く関わってきているということがいえるのではないかと思ったのです。。
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